「そういえばヒロ君はなんで自分でビジネスを始めたの?」
ということを大学時代からの知人から問われた。
大学を卒業してから1年後の2005年にはカナダのバンクーバーにワーキングホリデーに行き、ライターとしての活動やら写真活動やらをしていたことを思い返すと、
「なぜ部屋にこもって働くビジネススタイルなの?」
とかなり不思議そうに質問された。
今日はいつもとちょっと違う角度で記事を書いていきたいと思います。
自分の人生を生きないという選択肢がある
自分にとっては何も違和感のない、とても自分に素直な選択肢を進んできたつもりでいたけれど、確かに周りから見るとちょっと不思議に映るかもしれない。
今日はそんな、私に関するストーリーを語ってみたいと思う。
2015年のちょうど1年前にさかのぼる
あの日、世界No.1コーチと呼ばれている「アンソニー・ロビンズ」が東京へやって来た。
幕張メッセの会場だったか。大きな会場に1000人だか2000人だったかそれ以上だったか。すっかり人数は忘れてしまったけれど、大規模なライブコンサートと大差はなかった。
アンソニー・ロビンズのセミナーは、とにかく大声を出して叫び、踊り、騒ぐのです。
近くを通りかかった女子高生が「なにアレー? もしかして自己啓発ってやつ? 頭おかしいんじゃないの??」と呆れた声でつぶやいているのが聞こえてきた。
大の大人が「成功するぞー!」って、仕事もせずにこんなセミナーに来て騒いでいるのだから、そりゃ頭がおかしいと思われても当然だったと今にしてみれば思う。
宣言をさせられた3日目の午後
最前列のVIP席は100万円もするような自己啓発セミナーだった。
そのセミナーは3日間行われ、本田健さんやらなんやらという著名人も何名か登壇した。世界No.1マーケティングコンサルタントの「ジェイ・エイブラハム」の出番もあった。
そんなセミナーの最終日、自分は一体本当は何をしたいのか、何をやりたいのか? 覚悟を決めて、大声で叫べ!と指示があった。
熱狂する会場、耳が壊れるのではというほどの爆音の中で「起業して1000万円を稼ぐぞー!!」と叫んでいたように思う。
それが功を奏したかどうかは知らないが、確かにその2年後にそれを実現することにはなるが、いずれにしてもフツーの女子高生から見たら、異常な大人だったのは間違いない。
2006-2011年にまた時は戻る
ロストジェネレーション、就職氷河期と叫ばれていた2004年頃、私は100の説明会と60の面接に落ち続け、内定がないまま夏を迎えていた。
その後、人生を一からやり直すんだという青臭いことを考えていた私は、新卒という特権を手放し、カラオケ屋と観光写真の撮影と販売の仕事を掛け持ちするフリーターになった。
「新卒を手放す」ということは、それまでの大学4年間をある意味でムダにすることと同じだったので、それを止めなかったうちの親には本当に感謝するばかりと、今さらながらに思う。
そうやって考えてみると、切羽詰まった時のやり抜く力が全然ないなーと思う一方、
就職活動が始まる前も始まってからもずっと、組織や会社の中で働く自分のイメージがまったくなくて、無意識的に拒否をしていたようにも思う。
そんなわけでフリーターになった私は1年かけて100万円を貯め、カナダのワーキングホリデーへと旅立つ。
海外で新しい自分になるはず…が?
英語で飲食店や観光地の取材をして、それをカナダ在住の日本人へ向けてのフリーペーパーへ日本語で記事を書く、ということを仕事にしていた。
中学生ぐらいの時からライトノベルと呼ばれる小説を読み漁り、果ては自分でも小説を書いて自作のホームページにアップするような人間だったため、とにかく文章には自信があった。
英語もまったく喋れず、中学1年生の後半に習う「現在進行形 ~ing」がギリギリ分かる程度の私は、最初の1ヶ月間を過ごすはずだったホームステイ先でまったくコミュニケーションが取れず険悪な雰囲気に。
結果、1ヶ月を待たずして逃げるようにホームステイ先を離れた。他人と一緒に暮らすこと自体もストレスだったのかもしれない。
常に自力でいることが救いだった
自分がどうしていることが自分にとって一番心地よいのか? その感覚の奥深くまでを理解できる他人なんていないと思っているので、最後の最後で大事なところはちゃんと自分で決める。
海外生活というのはある意味で、常に自分の中の極論を求め続けさせられる環境だったのかもしれない。そのおかげで、自分が本当にやりたいこと、本当に心地よいことしかできなくなった。
日本に居たときの遠慮とか我慢とか、そういうものは不要だった。その代り、すべての責任は自分で負う必要があるのだから「決める」ということに対しての責任は持ち続けた。
その結果、私はHIPHOPダンスを習い、ライターとして働き、夜な夜な踊り、時には庭師(ガーデナーヘルパー)として働き、時には観光地の取材でイエローナイフという市まで飛行機を乗り継ぎ、オーロラの取材をした。
帰国後の就職活動は難航。やはり社会に適応できない
帰国後は都内の青山にある写真スタジオでフォトグラファーになりたいと思い、熱心にメールでオファーして面接に辿り着いた。でもその結果は散々なものだった。
中途採用というのは即戦力が求められる場であり、学生時代の時のような「働きながら学べたら幸せ」なんて考えを見抜かれようものなら罵倒される感じで、まったく就職できなかった。
要はただ単に、自分に甘い人間だった、というだけだった。
「好きなこと、やりたいこと、ふふふ~♪」みたいなフワフワした人間を採用したいだなんて、今の私から見てもお断りだ。
どうにか地元就職。地獄の5年が始まる
地元に、株式店頭公開している中堅インテリアメーカーの下請け工場があった。ハローワークで見つけたその求人は、その工場に駐在して働く形の事務員だった。
名も知れた会社で正社員になるのはなかなか良いと思った。本社が東京にあることもあり、なんとなく社会に自分が馴染めるような気もしていたのかもしれない。
ただ、それが地獄の始まりだった。要は自分に色々なことが合っていなかった。事務も、狭い中での人間関係も、決められた他人ルールも、年功序列という考え方も、ほとんどが合わなかった。
唯一合っていたのは、工場内で乗り回すバッテリーフォークだけだった(意外にも)。
2011年、震災で被災地となる
茨城の我々の地域は、実は被災地として認定されていて、その保障も実はいろいろと出ている。
津波もあったし、数日間の断水と停電、そして何よりも家々が半壊、全壊して、町中の電信柱が倒れた。大きな橋も崩れ落ち、走行中だった車の何台かはそのまま湖へと落ちていった。
ただ面白いもので、被害を他県と比較してしまうと小さなものと認識されてしまうようで、当時の計画停電の対象にもされてしまう虚しい立場でもあった。
(県知事がそういえば国にキレていた。「うちの県も被災地なのにどういうことだ!」)
2011年8月、転職活動
茨城のド田舎の中に、自己啓発が好きな英語講師が経営する小さな会社があった。
主な業務は英会話教室事業の運営で、日本人スタッフも自己啓発を含め学びに熱心で、外国人スタッフはアメリカ、オーストラリア、アイルランドと多様だった。
海外生活から5年が経つ間も細々と英語の勉強を続けていた私は、そこの会社への転職を決意する。震災の衝撃が日本に走ったあの頃、私もまた「自分の人生を生きる」ためにも、嫌々ながら働く環境は手放す必要があった。
その小さな会社は後に、通販事業やセミナー事業も始めることとなり、私も英会話講師として働く一方、マーケティングを始めとする学びと実践を繰り返すような働き方にシフトしていく。
そして、2015年4月
自己啓発や成功哲学の考え方だけに浮かれていた頃とは異なり、この時期にはもうハッキリと「どうすれば稼げるのか」「どうすれば顧客は生まれるのか」「どうすればビジネスは回るのか」ということが自分の中で確立されていた。
あの小さな会社で働いてたのはわずか3年ほどだったかもしれない。だけど、朝から深夜まで、言葉通り休みなく働いたおかげで、まるでそれまでの10年を一気に取り戻すような自己改革が起きていた。
そしてそんな日々が、最強に楽しかった。
ビジネスに関する本も読んだ、毎晩インターネットを介してオンライン学習もしたし、セミナーにも行った。コンサルタントの方からも多くを学ばせていただいたし、何よりもそれらの学びを実践させてくれたあの小さな会社があった。
本当に、すべてを取り戻し開眼させてくれた場所だった。
2017年、冒頭の質問に戻る

「そういえばヒロ君はなんで自分でビジネスを始めたの?」
「なぜ部屋にこもって働くビジネススタイルなの?」
改めてその質問に対して、どんな回答が適切なのかを考えてみる。ただどうしても一言で、こうだったから、と言えるようなものでもなく。
「なぜ自分でビジネスを始めたのか?」と言えば、どんどん開眼していく自分の力を、外で試したくなったというのがひとつだと思う。
じゃあ、なぜ自分の力を外で試そうと思ったのかというと、その答えは転職を決意した「2011年のあの日」とまったく同じで【自分の人生を生きるため】でしかなかった。
今も時折、なんとなく時間をムダにしてしまっている自分に気がついた時には自身に問うようにしている。
「本当に後悔なく、最高の人生だったと言えるような一瞬一瞬を生きているか?」
そして「なぜ部屋にこもって働くビジネススタイルなの?」という答えに対しては、“そのようになっていった” からというのが一番正しいように思う。
茨城という地方の環境で働くスタイルを試行錯誤していた自分、細切れの限られた時間の中で効率よく効果的にコンサルティングを受けたいというニーズの合致、という具合に。
もちろん私も最初から部屋にこもっていたわけでもなく、むしろ外に出る活動も多い方だった。
ここから先のストーリーは、「地方田舎暮らしの茨城人でも稼げた赤裸々なお話」の中で、文字通り赤裸々に話しているので、そちらを参照してもらえればと思う。
貯金もなく、人脈も実績も乏しい中で、一体何をどうしたら1年という時間の中でそれなりにでも駆け上がることができたのか?
その中には貴重な実践ノウハウも詰まっているので、どうぞ続きのストーリーを、お楽しみに。
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地方田舎暮らしの茨城人でも稼げた赤裸々なお話
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